2015年11月19日木曜日
2015年11月6日金曜日
ロバート・ジェイコブズ「ビキニ核実験が開いた地球の新地質年代の生と死」@JapanFocus
In-depth critical analysis of the forces shaping the Asia-Pacific...and the world.
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アジア太平洋ジャーナル/ジャパン・フォーカス
アジア太平洋…そして世界を形作る諸力の批判的深層分析
ブラヴォー核実験と人新世*初期における地球生態系の生と死
アジア太平洋ジャーナルVol. 13, Issue. 29, No. 1, 2015年7月20日
ロバート・ジェイコブズ Robert Jacobs
凡例:(原注)[訳注]
序論
米国は1954年3月1日、マーシャル諸島ビキニ環礁において、最初の標的到達型水素爆弾を試験した。この核兵器は、設計者らが計画または予測した威力の3倍に達する爆発力を生みだした1 。核兵器から生じた放射性降下物の雲が100キロの彼方にいた漁夫を殺害することになり、数百マイル圏内の数百人、おそらくは数千人の人びとを病気にかからせ、環礁全域を高レベルの放射能で汚染して、住民に移住を余儀なくさせたばかりか、そのほとんどが二度と故郷に戻れない結果を招いた。この兵器はマーシャル諸島で試験されたのだが、その爆発は地球規模のできごとになったことが徐々に明らかになっていった。
世界の人びとは、第二次世界大戦の終結直前、広島と長崎に対する米国の核攻撃がもたらした破壊に衝撃を受けた。それぞれ1機の航空機が1発の爆弾を運び、それが都市の全域を破壊しつくし、1秒足らずで数万の人びとを殺したのである。ヒロシマ・ナガサキ原爆と将来の核攻撃に対する不安が、人類の未来に暗い影を落とすことになった。その後、10年足らずのあいだに、米国とソ連の両陣営は核兵器の元祖が小さく見えるような兵器を開発していた。熱核兵器、いわゆる水爆は、数千倍も強力であり、一発の爆発で数千万規模の人間を殺す潜在力をもち、しかも殺される人間の多くは兵器の衝撃波と熱波の到達範囲から遠く離れているのである。おまけに、熱核兵器が放出する放射能は地球全体の海洋水と大気圏に拡散し、実験場から遥かに離れた場所の魚類、鳥類、動物種、植物種を汚染する。放射性核種の多くは数十万年のあいだ危険でありつづけるので、熱核爆発に内在する危険性がもたらす遺産はまだよくわかっていない。
ブラヴォー実験の放射能が太平洋一帯に拡散し、数千マイル離れた海域で漁獲された魚を汚染したので、戦争と自然に対する人類の理解も変容しはじめた。
米国の戦略核計画の策定者たちは、核戦争遂行戦略の基本である爆発力と熱とは別物として、放射性降下物が戦争の強力な道具であると素早く認識した。米国と旧ソ連の両陣営は時間の経過とともに、この兵器が地球の広大な地域を致死レベルの放射能で汚染できる能力を地球熱核兵器戦争で相互に攻撃し「殲滅」する計画に組みこんだのである。
逆に言えば、核兵器実験後の環境における放射能のふるまいの観察が、地球生態系の相互連結した性格に関する新しい理解を形成することになった。この理解が生きる場である惑星における人類の位置付けの再考を促し、今日、国境を超えた社会的・政治的勢力になっている地球環境運動の形成のきっかけになり、情報源にもなっている2。国民国家の伝統的な政治が持続してはいても、多くの人びとが、相反するイデオロギーや国益とは別の次元で、人間社会の相互依存性を直感的に把握している。
米国では、第一次と第二次の両世界大戦中、論争の中心は「海の彼方」で勃発している戦争に馳せ参じることの価値に置かれていたが、第三次世界大戦では、「海の彼方」が存在しないで、「当地」だけになると多くの人びとが理解するようになった。核戦争による爆発と火の恐怖もさりながら、回避不可能な致死性の放射能を免除されている土地はもはや存在しない3。地球熱核戦争は、世界に対する、地球そのものに対する戦争だったのだ。
50海里(92.6キロ)北方、高度3000メートルから爆発の62秒後に撮影されたブラヴォー実験のきのこ雲(出処: Kunkle and Ristvet)4
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ブラヴォー実験とフォールアウト概念の転換
米国は、ヒロシマ・ナガサキに対する核攻撃のあと、核兵器が放射能をもたらしはしたが、放射能の影響を受けるほど近接していた人間は爆発の衝撃波または熱波で殺されたので、放射能は重要でなかったとする立場を維持していた。マンハッタン計画の指揮官、レズリー・グローヴス少将は1945年9月、報道陣がニューメキシコ州のトリニティ実験現地を訪問する準備をしていたさいの記者会見で、研究の結果、「ヒロシマでは、ごくわずかな人たちだけがガンマ線で死亡しており、死亡者のほぼ全員が、爆発の衝撃波、または瞬間的で強烈な熱波によって死んでいたことが明らかになった」と語った5。
ロンドンの新聞、デイリー・エクスプレスのウィルフレッド・バーチェットは1945年9月、ヒロシマに到着した最初のジャーナリストになった6。衝撃や熱で死ななかった数えきれない被爆者たちが、「原子の疫病」――直言すれば、放射能の影響――で死んでいると書いており、これはやがてヒロシマ・ナガサキの「原爆病」と呼ばれるようになった7。米国はほどなく被爆者に対する放射能のなんらかの影響を認識し、1947年に原子爆弾傷害調査委員会(ABCC)を設立して、放射能被曝が被爆者集団にもたらす健康上の影響を研究した(が、治療はしなかった)。しかし、米国は日本占領の期間中、放射能および米国による核攻撃の放射線による影響に関する日本国内のあらゆる論議を検閲し、ABCCによる調査の結果を数十年間にわたり独占し、外部の科学および医療の研究者らが研究所の研究結果を閲覧することを拒んでいた8。
米国政府は核兵器による放射能の脅威を過小評価しつづけていた。ソ連が1949年に核兵器を獲得し、米国がソ連による攻撃に対して脆弱であると感じていたときでさえ、そのような脅威をめぐる米国内の議論は、ソ連の核兵器の爆発力と熱の側面を強調しており、放射能の重要性を過小評価していた。これは、米国自体がソ連の核兵器獲得に対応して1951年に米国本土内のネヴァダ州で開始した核実験に対する国民の不安、そして反対運動の可能性を未然に抑えるための行動だった。ネヴァダ実験場で、核実験のさいに実施された「原子戦争演習」に参加した部隊は、やはり放射能の危険性を過小評価する洗脳教育を実験前に受けさせられていた。軍特殊兵器計画の士官はデザート・ロックⅥ演習に参加する兵士らに、「建設物は2マイル圏内で衝撃波によって破壊され、3マイル離れた場所で火災が発生するかもしれないが、致死レベルの放射能の圏内半径はもっと小さいとわかっているので、地上の兵士に関するかぎり、正直に言って、それ(放射能)は3つの効果のなかで重要度が最も低い」と教えた9。
衝撃波 2マイル圏内
火災 3マイル圏内
放射能 1マイル圏内
ネヴァダ実験場におけるティーポット作戦のさいのデザート・ロックⅥ演習参加兵士に対する洗脳教育(出処:映画“The Atom Soldier”の一場面)10
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米国は、マーシャル諸島の全域を日本から奪取し、第二次世界大戦後に同諸島の保護統治国の地位を国連によって公式を認定されて以来、マーシャル諸島の北部海域にある環礁を核実験場として使用していた11。米国は「保護統治国」の地位を認定されながら、マーシャル諸島を軍事実験に使用する植民地として扱っていたことになる。その環礁に住んでいた人たちの多くは、家から追いだされたり、家や食料源を取り返しがつかないほど放射能で汚染されたり、核兵器のフォールアウトで直に被曝して病気になったり、死亡したりするなど、米国の核実験による直接的な被害をこうむった。ローズ・ゴッテモラー米国務次官代行(軍備管理・国際安全保障担当)は、現在は独立国であるマーシャル諸島共和国で開催されたブラヴォー実験60周年追悼式典で、米国政府の公式代表として発言し、諸島の人びとに対して米国がもたらした犠牲について、次のような謝辞を述べた――
アメリカ国民はこの地で起こったことを記憶にとどめ、マーシャル諸島の人びとが世界の平和と安定の推進に果たしてきた歴史および現在における貢献を称えるものであります。あなたがたの多くに、つまり失った家族と愛する人たちを記憶にとどめておられるみなさまに申しあげたい――その人たちはわたしたちの記憶と祈りにも、やはり留められております。本日、わたしたちはその人たちの思い出を称え、わたしはことばが痛みを癒すにすぎないと存じておりますが、この国は安全な世界を築くための戦いに並外れた貢献を果たしたのであり、そのことで米国は、そして世界は感謝いたしております。12
マーシャル諸島の「保護領」としての地位は、ビキニを(そして、他の島々も?)今後の数世紀にわたり居住不能の島にした衝撃波と放射能から守られる保護を公民に付与しなかったのだろうか?
米国はマーシャル諸島の北東部海域の一角を占める実験場を、同国の「太平洋性能試験場」と呼び習わしていた。米国が核兵器を1940年代の核分裂兵器から1950年代の熱核融合兵器へと発展させるとともに、米国の原子力委員会は、放射能の害を表向きに過小評価してはいたが、先刻承知していたので、国内のネヴァダ実験場では熱核兵器実験を実施しない方針を暗黙のルールとして採用していた13。米国はこれまで熱核兵器を国内で実験したことがない。米国が試験した核兵器の14%だけが太平洋性能試験場で爆発させられたが、この14%は、試験されたすべての核兵器の威力総計の80%に相当している14。
1950年代初期の熱核兵器の製造と試験に先立って、放射能の危険性に対する国民の認識を抑制する米国の尽力はおおむね功を奏していた。米国が実施した最初の熱核兵器試験、すなわち1952年のマーシャル諸島エニウェトク環礁でおこなったアイビー作戦マイク実験は、その熱核融合の性格に関する機密を保つことに成功したので、国民の不安を招かなかった15。しかし、1954年のキャッスル作戦ブラヴォー実験のあと、放射能災害の規模は、米国にとって人道および広報活動の両面で災害になった。ブラヴォー実験の核兵器によって、致死レベルの放射性フォールアウトが生成され、米国原子力委員会による1955年の計算によれば、この核兵器がワシントンDCで爆発していたと仮定すれば、風下にあたるバルティモア、フィラデルフィア、ニューヨーク市は居住不能地になっていた16。
米国東部地図に重ねあわせたキャッスル作戦ブラヴォー実験の爆発による放射性降下物パターンの概念図(出処:米国原子力委員会の1954年5月24日会議、Hewlitt and Hollによる再録)17。[訳注:単位はレントゲン]
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フォールアウトの雲がビキニ環礁の風下方向に拡散し、数千平方マイルの区域を汚染した。この区域の圏内に数十もの環礁や島嶼(とうしょ)があり、数えきれない漁船が浮かんでいた。日本の厚生省は後に、船舶の隻数を856、被曝した乗組員を20,000人以上と計算している18。とりわけ1隻の漁船、第五福竜丸(英訳名称で、かの名高い「ラッキー・ドラゴン」)の場合、乗組員の放射能汚染が、放射性降下物の危険性に対する認識を抑制する米国の能力に終止符を打ったので、歴史的に重要な事例になった19。第五福竜丸はビキニ環礁のブラヴォー装置起爆地点から100キロ離れた海域で操業していた。爆発から約3時間後に灰が降りはじめ、船上と乗組員の体に厚い層をなして堆積した。乗組員には知る由もなかったが、これはブラヴォー実験に由来する高レベルに放射性のフォールアウトだった。乗組員の多くは、皮膚に熱傷が現れ、全員が放射能中毒にかかった。2週間後、船が焼津港に帰還したとき、乗組員全員が病院に収容され、放射能中毒の治療を受けた。米国は、第五福竜丸が日本への帰還を果たすまで、ブラヴォー実験によるフォールアウトの衝撃的な規模と致死性に対する認識を封印することができていた。しかし、同船が帰投したのが米国領外の港であったため、放射能症状が直ちに診断され、日本の報道機関が乗組員の病状を素早く報道してしまった。それにつづいて、国際通信各社が記事を配信した20。事件がニュースになったため、米国は放射性降下物について、口を塞ぐことができなくなった。
筆者が以前にも書いたように、「フォールアウト」という用語が世界の報道界と文化で一般に使われるようになったきっかけは、この事件だった21。ブラヴォー事象以前に欧米の報道機関が書いていたフォールアウトは、軍事と科学の論議の用語を借用しており、「残留放射能」を意味していた。これはフォールアウトを「即発放射能」と区別するためであり、核攻撃のさい、「即発放射能」だけが懸念の対象であるという公式説明がほぼ常に付け加えられていた。米軍要員向けとアメリカ国民向けにそれぞれ発行されていた印刷物のどちらでも、「残留放射能」は、箒(ほうき)、または石鹸と水で簡単に除去できると書かれていた22。第五福竜丸の乗組員に降りそそいだ灰は残留放射能だった。それはフォールアウトだった。乗組員の全員が放射能中毒にかかり、久保山愛吉・無線長は放射能被曝6か月後から程なくして死亡した。世界の報道界が乗組員に注目するにつれ、熱核兵器の爆発地点から100キロ離れた彼方にいても、フォールアウトに殺されることがあると明らかになった。原子力委員会にはこの事実を操作する術(すべ)がなかった。彼らは口を塞ぐ手段を失ったのである。放射性降下物に対する世間の関心と認識は、1950年代を通じて深まる一方だった23。
世界に毒を盛る~核戦争遂行ドクトリンと放射能
米国の核兵器設計技師らと米軍は、核兵器の設計と試験の開始の当初から放射性降下物に気づいていた。1945年7月16日、ニューメキシコ州において、史上初の核兵器爆発実験、トリニティ試験が実施されたとき、周辺一帯に放射能測定班が配置されていた。測定員たちは爆発の風下で放射能を検出したが、措置を要するほど重大な放射能レベルではないと判断した24。ヒロシマ・ナガサキの爆撃評価に従事したアメリカの科学・技術要員らもやはり、これら2都市に対する核攻撃による残留放射能の存在に気づいており、これがヒロシマでは、あの名高い黒い雨になって降りそそいでいた。
マーシャル諸島における米国の核実験は、1954年のものが初めてではない。米国は戦争終結の直後に核兵器試験を継続する準備を始めていた25。米国は1946年にビキニ環礁の住民を立ち退かせ、その環礁でクロスロード作戦と称する2度の核兵器試験を実施した。この作戦は戦後初の核兵器試験になった。クロスロード作戦の2度目の試験がベイカー実験であり、これが核兵器史上で最初の水面下爆発実験だった26。その目的は、敵国の港湾内で海軍艦船を破壊する核兵器の有効性を判断することにあった。大気中で破裂する核兵器が爆発時の雲から風下に残留放射能を拡散しがちであるのに比べて、水面下の試験は爆発点に直近する区域の水に残留放射能を集中させる。その結果、ビキニ環礁の礁湖の放射能が予想外の高レベルになった。多数の海軍艦船が試験実施のために使用され、40,000人の軍将兵が試験現場に配属されており、船舶を洗浄するのに礁湖の海水を用いた結果、艦船の多くが高レベル放射能で汚染されてしまった。放射能レベルが上昇したので、将兵らは艦船からの撤退を余儀なくされ、計画されていた3度目のクロスロード作戦試験は断念することになった27。
一連の試験の分析にあたった要員たちにとって、放射線障害の目に見えない性格が非常に印象深かった。軍事計画立案者たちは1947年に執筆した一連の試験に関する最終報告において、爆弾による心理効果に関する厳しい評価に加えて、核兵器の放射線作用が標的国の社会状況を悪化させる独特な心理効果について、次のように特筆した――
3.都市に隣接した水塊における爆弾の爆発によって、ベースサージ*が出現し、核分裂生成物を含んだ霧が風に流されて広大な区域に拡散するので、即発性の致死作用をおよぼすだけでなく、放射性粒子の堆積による建築物の汚染によって、長期にわたる災害をもたらすことになるだろう。
*[訳注:水中での核爆発の直後、水面に発生し、瞬時に拡大する環状の雲]
4.第一世代の原子爆弾より遥かに強力な原子爆弾を1発か2発みまわれ、放射性の霧で覆われる現代的な都市に振りかかる複合災害の適切なイメージを思い浮かべることは不可能である。汚染区域にいる被爆者のうち、一部は数時間内に死亡する定めにあり、一部は数日以内、残りは数年以内に死ぬことになるだろう。だが、この区域は風と地形によって決まるので、規模と形が一定でなく、目に見える境界も存在しない。どの被爆者も、自分が死ぬ定めにあるのか否か、確かに知ることがかなわず、数千の人びとが、当面するあらゆる恐怖に加えて、死と死ぬ時の不確定性に打ちのめされる28。
アメリカの軍事計画の立案者たちが武器としての放射能の致死性能を公的に過小評価していたものの、この最高機密評価は、彼らが極めて初期の時点で、核爆発によるフォールアウト残留物の心理的影響に加えて、即発および長期の両面にわたる破壊的な身体的影響を明確に意識していたことを実証している29。
冷戦が進展するにつれ、米国はソ連が従来型武力と兵員数で優越していると認識し、主として核戦力に対抗策を頼るようになった30。トルーマン、アイゼンハワー両歴代大統領は、朝鮮戦争で核兵器を使用すると脅しをかけ、戦域に核兵器を配備することさえ実行したが、その紛争で核兵器は軍事的に無益であると判明した31。しかし、米国は、欧州に配備することを躊躇していた膨大な従来型軍事力と兵器を朝鮮半島とヴェトナムに集積することをためらわなかった。
ソ連が1949年末にカザフスタンで最初の核兵器を爆発させると、それはアメリカの核開発計画に拍車をかける効果をもたらした32。このような影響の最も端的な帰結は、熱核兵器の開発と製造に対するトルーマン政権の支持を具体化することだった。この動きで必須になるのが、プルトニウム生産の劇的な増強である。トルーマンは1949年に「わが国が国際的な統制力を獲得することはありえない」と想定し、「わが国は原子兵器において最強にならなければならない」と主張した33。トルーマンは1950年にまたもや、ワシントン州ハンフォード保留地における新規核発電所の建造によるプルトニウムの増産に動きだし、その結果、1963年までにハンフォードの敷地内に計9基の核発電施設が揃うことになり、アメリカのプルトニウム生産量は倍増した34。その間、アメリカのプルトニウム産出量の増加がアメリカの核兵器保有数の大規模な増加に拍車をかけ、当然ながら核攻撃対象標的の指定件数も増大の一途をたどった。
アメリカの核攻撃対象標的は、BRAVO、DELTA、ROMEO標的という3種の焦点類型に分類されていた。ブラヴォー標的は、ソ連の核攻撃能力を無力化することを狙っていた。デルタ標的は、ソヴィエト社会の基盤構造とその軍事行動を支える能力を破壊することを狙っていた。ロメオ標的は、西ヨーロッパに対するソヴィエトの軍事侵攻を撃退することを狙っていた。デルタ標的は、敵国の工業生産に従事する能力、そして軍事行動を支えるあらゆる形態の社会・産業基盤の生産力を阻害するように設定されていた35。3種の標的設定指令のうち、デルタは火災と放射能の効果を最大限に利用していた。ロメオ指令もやはり火災と放射能を利用していたものの、同じ戦場に友軍部隊が存在しており、戦闘の成り行きしだいでロメオ標的対象の領域を設定しなければならないので、有効性が限定されていた。デルタ標的に対する火災による被害と放射能汚染による長期的な被害については、阻害要因は認識されていなかった。
放射性降下物を正確に使用し、拡散するのは困難なので、米国がそれを戦闘における標的攻撃手段に活用したことはなかった。標的選別戦略において、放射性降下物は、爆発の熱によって発生する火災と同じように「ボーナス効果」と考えられていた36。それにしても、放射能のボーナス効果が途方もない死亡率をもたらすのは、核戦略参謀たちには周知のことだった。
風下地域の居住人口の相当な部分を殺傷する放射性降下物の能力に関する認識は、デルタ標的戦略の基本的な側面だった。米国は1948年に実施した一連の核兵器試験のさい、ヒロシマ・ナガサキ原爆投下のさいの爆発高度よりも地表近くで起爆する実験をおこない、致死レベルの放射性降下物が劇的に増加することを確認した37。マーシャル諸島でブラヴォー実験が実施されていた1954年3月当時の戦略空軍(SAC)参謀たちによる米軍幹部要員に対するブリーフィング[概要説明]後の報告書で、熱核兵器の能力が標的戦略に組みこまれる前でさえ、このような理解によって、ターゲッティア(軍隊用語で「攻撃前に標的を指定する任務を担当する情報士官」)が放射性降下物の基本的な役割を想定していたことが見て取れる。米海軍の原子力本部長補佐官、ウィリアム・B・ムーア大尉は上官たちに宛てて、戦略空軍によるソ連攻撃の「最適計画」について、「戦略空軍は、ソ連の初期警戒前哨部隊を同時に叩けるように、多方面から600発ないし750発の爆弾をロシアに接近させるという条件のもとに攻撃を浴びせることができると想定されておりました。自動誘導システムを用いた爆弾を投下し、到達しだいにブラヴォーおよびデルタ両種類の標的を叩くまで、現在時点から約2時間を要することになるでしょう」と書いた。ムーア大尉は、「2時間の終わりに、実質的にロシア全体が、くすぶり、放射線を発している残骸に他なくなるという最終的な印象が残りました」と結語を書いた38。
カーティス・ルメイ将軍が1948年に新設された戦略空軍の司令官に就任したとき、彼の当初目標は、ソヴィエト連邦攻撃に際して、2時間以内に米国の核兵器備蓄量の80%を同時に投入できる戦力態勢を構築することだった39。1950年代末には、米国の核兵器備蓄が増強され、SAC攻撃力を構成する航空機が改良されるとともに増強されており、SAC計画は、第一波攻撃DGZ(グラウンド・ゼロ指定対象)200か所の97%確証破壊、第二波攻撃DGZ400か所の93%確証破壊の実現を目指した標的設定に狙いを定めて強化された。SAK計画策定は、13ないし16キロトン核兵器を投下してヒロシマで達成した破壊に比肩しうるレベルの破壊をソヴィエト内の標的に対して達成するために、300ないし500キロトン兵器を投入することを想定していた。当時、米海軍太平洋艦隊司令官の任にあったハリー・フェルト提督は、SACの作戦計画が策定されたとおりに実施される場合、本官としては「敵軍の兵器によるものよりも、自軍の兵器による残留放射能被害が心配になる」とコメントした40。
軍部内には、戦略空軍(SAC)が推進する標的選定・核戦争戦力に対する認識と同時に、抵抗が存在していた。この抵抗の大部分は、戦略空軍の大規模な予算と戦略面での優位性に恨みを含んだ海軍と陸軍の軍部内ライバル意識の産物だった。1950年代末には、ソヴィエトの核攻撃能力が増強され、自軍側の地上の核爆撃機がソヴィエト側の第一波攻撃の格好の標的になることが明らかになった。陸軍と海軍は、アメリカの核戦力を空軍の専有物にしている状況を改め、三軍に拡大することになる動きのごく初期段階に手を染めていた。陸軍参謀長と海軍作戦本部長は1957年、「彼らの部員たちに、SAC戦争計画を補完する結果になる放射能とフォールアウトに注目した高出力兵器の必要性に関する合同分析を準備させた」41。彼らの分析結果は、『プロジェクト・ブダペスト』と標題された報告書にまとめられ、アイゼンハワー大統領に提出された。同報告は、「JSCP(合同戦略能力計画)によって要請される被害を達成するために必要な規模よりも遥かに大量の兵器が標的に投入され、その結果。放射能とフォールアウトが、危険なまでに、また不必要なまでに高レベルになる」と想定していた42。
そのような批判があっても、戦略戦争計画または核攻撃標的選定に投入される兵器の大幅な削減という結果にはならなかった。1961年始め、新たに選出されたジョン・ケネディ大統領が就任してから、ほんの数日後、それぞれ約4メガトンの威力をもつマーク39熱核兵器2発を搭載して、ノースカロライナ州の上空を飛行中の戦略空軍(SAC)爆撃機が事故を起こした。その結果、1発の核兵器が爆撃機から地上に墜落しており、6系統の安全装置のうち、5系統が無効になっていた43。ロバート・マクナマラ国防長官は米国領内で熱核爆発が勃発する寸前であった状況に衝撃を受け、兵器管理手続きと戦争遂行計画の再検証を実施した。マクナマラ長官はその時、核兵器が関連する事故(「ブロークン・アロー」[折れた矢])が頻発していること、大統領行政府に兵器の集権管理が欠如していることを知った。マクナマラはネブラスカ州オマハのSAC本部を訪問し、さまざまな軍部局による核攻撃を調整して、統合的な攻撃計画に一本化するために新たに策定されたSIOP(単一統合作戦計画)について、トーマス・パワーズによる概略説明を受けた44。マクナマラは、ソ連に対して計画された連続波状核攻撃による影響の予測を示された。第一波はソヴィエトの戦略兵器で構成されるブラヴォー標的に集中し、第二波はソヴィエトの都市中心部を狙ったデルタ標的に集中していた。彼が2回の波状攻撃で予測されるフォールアウト想定を示されたとき、文字どおりにソ連本土全域とそれを超えた地域が致死レベルの放射性降下物で覆われ、その結果、ソ連、中国、東ヨーロッパの3億5000万人が死亡すると想定されているのを見て、「目に見えて衝撃を受けて」いた45。
上院軍事委員会・空軍小委員会が1956年7月に非公開で開催した会合における、陸軍研究開発本部長、ジェイムズ・ガーウィン将軍の証言が、その後の年内に公開されたとき、軍の戦略の結果、地球が放射性降下物で覆われることが一瞥するだけでも歴然としており、そのことが米国で公論の的になった。ガーウィン将軍は委員諸氏を前にして、ソ連が米国を核兵器で攻撃するようなことがあれば、「ロシアの攻撃に対するアメリカの報復によって、放射能による死がアジア一帯を覆い、日本とフィリピンまで拡散するでしょう。あるいは風が別の方向に吹く場合、東ロシアに対する攻撃の結果、おそらくイギリス諸島の人口の半分…を含む、何億人もの欧州人が殺されることになるでしょう」とコメントしていた46。
米国内の核兵器発射施設ごとに1メガトン兵器1発に限定したソヴィエトの攻撃の結果、予測される放射性降下物拡散の模式図(出処:Morrison and Walker (1983), 153)47
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標的国の何億人もの人びとに加えて、語られることはないが風下の何千万人もの死を招く戦術計画が、核兵器の出現から20年もたたないうちに、また熱核兵器の完成から2年のうちに完成したのである。その後の20年間のうちに、運搬手段がさらに増強され、核兵器が大陸間弾道ミサイルの先端に搭載されるようになって、1時間以内に世界の反対側にある標的を叩く能力が達成され、さらにまたMIRV(多弾頭ミサイル)が開発されて、一発のミサイル発射で最大14発の核弾頭をそれぞれ違った標的に届けられるようになった48。ヒロシマ・ナガサキ核攻撃後の1945年、世界の多くの人びとは、核兵器が地球上の全生命を破壊するかもしれないと心配しはじめた。1950年代末には、この抽象的な恐れが核戦争計画の不可欠な構成要素になり変わっていた。
生態系意識と死を免れない地球
筆者は別の機会に、ヒロシマとナガサキに対する核攻撃が、人類が地球の自然を根本的に新しい様式で概念化することに役立った様相について書いた49。第三次世界大戦の展望は、第二次世界大戦および第一次世界大戦の再来の核戦争版であり、地球全体をそれら核兵器の標的、犠牲対象、その戦争の被害対象として見る観念が浮上した。世界の歴史で初めて、あらゆる戦争のすべての陣営の何億人もの人びとが戦没者になり、勝利を味わう勝利者はいないだろうと想像することが可能になった。
犠牲対象としての地球の観念は、新しい地球の概念――殺されることがありうる存在であり、したがって、命ある存在――を示唆している。世界中の人びとが、放射能汚染の危険性について、またすべての核兵器保有諸国が実施してきた大掛かりな核実験計画によって、この汚染がすでに存在している、その規模について、より意識するようになって、核戦争の可能性とは別に、放射能の拡散による生態系の損傷に関する意識が浮上しはじめている。この理解は、ブラヴォー実験によるフォールアウトに関する認識として登場した。
第五福竜丸が焼津の港に曳航されたとき、世間は放射性降下物が爆発地点から100キロ以上離れた場所の人びとを病気にし、殺すことがあると知り、一発の核兵器によるフォールアウトの広範囲におよぶ致死的な側面が明らかになった。ブラヴォーによる放射能のさらなる影響が徐々に明らかになってきた。入院させられていた乗組員たちが放射能疾患にかかっており、彼らが水揚げした魚が放射能で汚染されていたことが明らかになったときには、彼らの獲ったマグロがすでに流通経路に入っていた。
1954年、築地水産物市場で販売に付されていたマグロの放射能レベルを測定する東京都庁職員たち(出処:共同)
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公共の安全を図って、放射能で汚染したと思われるマグロの検査がおこなわれた。東京の築地など、鮮魚市場でマグロを検査すると、かなりの量の魚体の放射能検査結果が陽性になった。マグロが日本の各地で穴に投げ込まれ、埋められた。日本で消費されるマグロの大部分がマーシャル諸島海域で漁獲されていたので、1954年7月、日本の調査団がビキニ環礁に派遣され、その海域のマグロが「重大な汚染」をこうむっていることが判明した。マーシャル諸島の北太平洋海域から遠く離れた海域のマグロの放射能汚染を伝える報告が相次いだ。マーシャル諸島の北東約1,000マイルの海域で漁獲され、1954年10月に横浜で水揚げされたマグロの10本のうちの1本が高レベルの放射能で汚染しているのが見つかった。水揚げされる魚を検査するガイガ計測器が設置されていた5か所の港のひとつ、東京の市場に11月、オーストラリアの沖合で漁獲された2トンのマグロが水揚げされ、高レベルの放射能で汚染されているのが見つかった50。汚染魚が環太平洋の全域で見つかり、第五福竜丸のように、人間が病気になったり、殺されたりしたという事実によって、これらの放射性核種が生態系に入ってしまうと、汚染箇所に留まるのではなく、空気と水を介して、遠く、広く移動することが明白になった。
第五福竜丸乗組員の病気と何百人ものマーシャル諸島民の汚染に関する報告と同時に、米国内でネヴァダ州の核兵器実験による風下の放射性降下物にまつわるニュースが表面化しはじめた。ニューヨーク州トロイに立地するレンセラー工科大学、放射化学教室の関係者らは1954年のある朝、すべてのガイガ計測器が異常な高レベル値を記録していることに気づいた。教師と学生たちがガイガ計測器を屋外に持ち出してみると、計測値が劇的な高さに跳ね上がった。原子力委員会の科学者たちは、その2日前にネヴァダ州で実施されていた核兵器実験の放射性降下物の雲が、彼らの計測した放射能を堆積させたのであると判断した52。コロラド大学医療センターの放射線学部長、レイ・ラニアー博士と、同生物物理学部長、セオドア・パック博士は1955年、AP通信に声明文を寄稿し、ネヴァダ州で実施する核実験からほんの数時間後にコロラド州の放射能レベルが急上昇する様相を明らかにした。パック教授は、「大気中に浮遊している放射能の塵の厄介な点は、わたしたちがそれを肺のなかに吸引すると、そこに滞留して、生体組織と直に接触しかねないことにあります」とAP通信の記者に語った53。
放射能汚染魚が漁獲された位置を示す日本政府の地図(出処:Y. Nishiwaki作図、Sevitt再録)51
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科学者たちと活動家たちは、米国政府が掲げる談話――核兵器実験による全米の放射能レベル上昇にまつわる不安には理がないという類い――に対して、原子力委員会の研究所の外部から収集したデータで反撃した。そうした研究のなかで最も重要だったのが、セントルイスのワシントン大学医学部の病理学者、ウォルター・バウアー、生理学者にして活動家、バリー・コモナー、セントルイスの小児科医、アルフレッド・シュワルツ博士が実施した名高い「乳歯研究」だった。この研究は、核情報委員会にボランティアたちから送られてくる乳歯を収集し、それに含まれるストロンチウム90成分をワシントン大学で分析するものだった。乳歯研究によって、1950年代末期から1960年代初期に出生した子どもたちの乳歯のストロンチウム90蓄積レベルが、その時期より10年前に出生した子どもたちのそれに比べて、平均14倍に達していたことが判明した。反核運動の活動家たちはこのデータを捉えて、米国内をはじめ、ソ連、太平洋の島々など世界各地で、1950年代の大半と1960年代初期に実施されていた核実験による放射性降下物の危険性に対する不安が世界的に募っていると見た54。
ランド研究所もまた何年も前に、似たような、だが秘密の研究を米国原子力委員会との契約のもとに実施しており、世界中の被験人体や検死対象者の火葬遺体から歯、骨、灰を収集して分析し、『プロジェクト・サンシャイン』の標題をつけて出版した55。1950年代中ごろに研究計画が発足したころの最高機密文書に、原子力委員会のウィラード・リビー委員が、「だれであれ、死体泥棒を上手にやってのける方法を知っていれば、国家に本物の貢献ができる」と発言したことが明らかにされている56。オーストラリアでは、南半球に侵入したフォールアウトの到達範囲を調査するために、22,000人分の骨と歯が無断で収集されている。その調査結果は後年の乳歯研究と一致しており、核兵器の出現後に生きていた人びとの全員の遺体に検出可能な放射性核種が増加していることが認められた57。
ソ連、米国、英国の3か国は1958年11月、核実験一時停止協定に合意し、それ以来、これら3か国による核実験を差し止められていたが、ソ連がこの協定をベルリン危機さなかの1961年9月に破棄した。熱に浮かれたように、核実験が再開され、米国自体が1962年に96発以上の核兵器を試験した58。反核運動団体である全米健全核政策委員会、通称SANE(1957年創設、現在は改組してピース・アクション)は、核兵器実験の再開、とりわけその激烈さを深く憂慮して、乳歯研究のデータを使った衝撃的な広告をメディアに連載しはじめた。この広告シリーズが力強く訴えていたのは、放射性降下物が地球全域に拡散していた当時、地球上にそれを避けることができる場所、とりわけ子どもたちがその脅威から守られている場所はなかったということであった59。SANEは、敬愛される著名人であり、ベストセラーになった育児書の著者、ベンジャミン・スポック博士の写真と談話をあしらった広告を出稿した60。スポック博士は当時、子どもの健康の問題といえば、米国で押しも押されない権威者であり、彼が登場した広告は、ニューヨーク・タイムズに初掲載されてから、700以上の他の出版物に再掲された。SANEはまた、(放射性ヨウ素131が酪農製品を経由して体内に摂取される主要経路を象徴した)毒物マークが鮮明に描かれた牛乳瓶をあしらった広告を出稿し、さらにまた、セントルイス乳歯研究の結果を前面に出して、「あなたのお子さんの歯にストロンチウム90」と訴えかける広告を出した61。
1962年に掲載された、牛乳に含まれる要素131のSANE広告(出処: Katz)62
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レイチェル・カーソンはほぼ同じころ、画期的な書籍『沈黙の春』を出版した。カーソンは、DDTなど、殺虫剤の広範で無差別的な使用によって、鳥類が殺されており、人類文明が全鳥類の絶滅の責任を問われるリスクを負っていると論じた。カーソンは、このために、将来の四季に沈黙の春が出現すると訴えた。カーソンの仕事は、新しい技術が人間社会におよぼす脅威が地球規模の影響をもたらしているという公共意識の台頭を補強した63。
生態学研究、意識、行動主義が1960年代から1970年代の全期間にわたって育っていった。地球を単一の生態系としてみる観念は1980年代において、英国人科学者、ジェイムズ・ラヴロックが明確に表現した概念のまわりに融合していった。ラヴロックの著作『地球生命圏~ガイアの科学』は、地球を一生命体としてみる、当時、人気のある見解として台頭していた認識に科学的な枠組みを与えた64 。ラヴロックは1960年代中ごろにNASAで働き、月、火星、後には宇宙探査で見つかる、あるうる形態のあらゆる生命体を評価する枠組みを創案するために「生命」の定義の確立をめざして働いていたチームに所属していた。ラヴロックはそのような判断の基準を策定する課程で、眼差しを地球に向け戻し、基本的な形で、地球が自己統制する、ひとつの有機体として機能していると結論づけた。彼の友人にして隣人であるノーベル賞作家、ウィリアム・ゴールディングの助言を受けて、ラヴロックはこの有機体をガイアと名付けた。この簡素な枠組みをもつメカニズムは、毒性化学物質と放射性核種の登場によって、総体的に影響を受けている単一の生態系を有するものとして、新たに浮上してきた地球のイメージを描写し、理解する手段を確立した。宇宙から見たホール・アース[全体としての地球]は、おそらく最も共鳴を招く冷戦後期の視覚的なイコン[聖像]であり、いまギリシャ神話の名前を身に帯びている65。
結論
水素爆弾の大気圏内核実験は、前例のない形で、地球生態系の相互連関する性格を可視化した。生態系内を貫流する放射性核種の移動は、体内システムを医者のために可視化する目的で患者に投与される放射性医薬品のように、以前には不可視であった全体的な相互連関性を露わにした。放射性降下物は、熱核兵器のきのこ雲に乗って大気圏を高く噴きあげられ、しばしば実験場から遥かに遠い地点――多くの場合、世界の反対側――に達して堆積した。太平洋の核実験のために汚染された魚が、海を渡って、環太平洋の全域で見つかった。1950年代の終わりには、意識的に注目している人びとの目に、米国とソ連が地球規模の熱核戦争に突入すれば、影響を受けない場所がどこにもないことが明白になった。戦場が地球そのものになり、戦争当事国であるか否かを問わず、万国の民人が戦争の犠牲者になる。この理解から、ある種の積極的な結果がもたらされた。1960年代から1970年代にかけて、放射性降下物の脅威の地球規模の性格を意識することによって形作られた世界観に立脚した大規模な環境運動が構築された。気候変動に関する主題をめぐる現代の論調は、この構図を背景にして形成されている。ブラヴォーは、この覚醒が人類の意識に浮かびあがった場なのだった66。
本稿は、Hiroshima Peace Research Journal [広島平和研究ジャーナル]Vol. 2 (2015): 77-96初出の論考に加筆した拡大版。
【筆者】
ロバート・ジェイコブズRobert Jacobsは、広島市立大学付属広島平和研究所(Hiroshima Peace Institute)の准教授、アジア太平洋ジャーナルの寄稿・編集者。著書:The Dragon's Tail: Americans Face the Atomic Age (2010)、編集書:Filling the Hole in the Nuclear Future: Art and PopularCulture Respond to the Bomb (2010)、共編集書:Images of Rupture in Civilization Between East and West: The Iconography of Auschwitz and Hiroshima in Eastern European Arts and Media (forthcoming 2015)。著書、The Dragon's Tailは日本語訳されて、凱風社が『ドラゴン・テール――核の安全神話とアメリカの大衆文化』の標題で刊行。ジェイコブズは、グローバル・ヒバクシャ・プロジェクトの代表調査員。
【クレジット】
Robert Jacobs, "The Bravo Test and the Death and Life of the Global Ecosystem in the Early Anthropocene", The Asia-Pacific Journal, Vol. 13, Issue 29, No. 1, July 20, 2015.
【関連APJ記事】
• Charles Pellagrino, Surviving the Last Train From Hiroshima: The Poignant Caseof a Double Hibakusha
• Vera Mackie, Fukushima, Hiroshima, Nagasaki, Maralinga
• Sawada Shoji, Scientists and Research on the Effects of RadiationExposure: From Hiroshima to Fukushima
• Masuda Yoshinobu, From “Black Rain” to “Fukushima”: The Urgency of InternalExposure Studies
• Robert Jacobs, Radiation as Cultural Talisman: Nuclear Weapons Testing andAmerican Popular Culture in the Early Cold War
• Robert Jacobs, Mick Broderick, Nuke York, New York: Nuclear Holocaust in the AmericanImagination from Hiroshima to 9/11
【当ブログ関連記事】
2014年12月24日
2014年12月26日
【海外論調】RTインタビュー:ロバート・ジェイコブズ
【脚注】
1 Richard G. Hewitt and Jack M. Holl, Atoms for Peace and War, 1953-1961: Eisenhower and the Atomic Energy Commission (Berkeley: University of California Press, 1989): 174.
2 Toshihiro Higuchi, “Atmospheric Nuclear Weapon Testing and the Debate on Risk Knowledge in Cold War America,” in, J. R. McNeill and Corinna R. Unger, eds.,Environmental Histories of the Cold War (Cambridge: Cambridge University Press, 2010): 301-322.
3 このテーマは、1950年代末に主流だった大衆文化のテキストに見ることができる。後にハリウッド映画になった小説『渚にて』は、世界核戦争で生き残った登場人物たちがオーストラリアのメルボルンで孤立し、致死レベルの放射能の避けられない到来を待っている光景を描いている。創元SF文庫、ネヴィル・シュート『渚にて【新版】人類最後の日』]、スタンリー・クレイマー制作・監督映画DVD『渚にて』(ユナイテッド・アーティスツ、1959年)を参照のこと。
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4 Kunkle, Thomas and Byron Ristvet, Castle Bravo: Fifty Years of Legend and Lore: A Guide to Offsite Radiation Exposures. DTRIAC SR-12-001. Kirtland, NM: Defense Threat Reduction Agency, 2013: 54.
5 “Tell How Atom Bomb Turned Sand to Glass,” Chicago Daily Tribune (September 12, 1945): 1.
6 Richard Tanter, “Voice and Silence in the First Nuclear War: WilfredBurchett and Hiroshima,” The Asia-Pacific Journal (August 11, 2005).
7 Wilfred Burchett, “The Atomic Plague: I Write this as a Warning to the World,” Daily Express (Sept. 5, 1945), p. 1.[1945年9月5日付けデイリー・エクスプレス第一面、ウィルフレッド・バーチェット「原子の疫病~記者は当記事を世界への警告として書いている」]。アメリカ人ジャーナリスト、アミー・グッドマンは久しい前から、ニューヨーク・タイムズと同社の記者、ウィリアム・ローレンスがヒロシマ・ナガサキ原爆投下にまつわる報道で1946年のピュリッツァー賞を受賞したことについて、ローレンスが当時、ペンタゴンの賃金を支給されており、ジャーナリストというより、軍部広報官とみなすべきだと、その仮面を剥ぐように主張してきた。2005年8月5日付け(2015年10月17日付けアクセス確認)デモクラシー・ナウ!サイト、アミー・グッドマン、“Hiroshima Cover-up: Stripping the War Department’s Timesmanof his Pulitzer,”[「ヒロシマ隠蔽工作~戦争省お抱えタイムズ記者のピュリッツァー賞の仮面を剥ぐ」]を参照のこと。[訳補注:併せて、当ブログ記事、マーク・セルデン「ナガサキ報道の発禁処分と御用ジャーナリズム~放射線リスク報道管制の源流」を参照のこと]。
8 Susan Lindee, Suffering Made Real: American Science and the Survivors at Hiroshima (Chicago: University of Chicago Press, 1994): 17-55, 143-165.
9 United States, Army Pictorial Center, “The Atom Soldier,”[米国陸軍映像センター『アトム・ソルジャー』] The Big Picture (1955). この通俗的な米国陸軍テレビ番組のエピソードは、1955年1月のティーポット作戦のさいにネヴァダ核実験場で撮影された。そのメッセージのペテンは、ガンマ放射線量レベルの「致死性」にある。ヒロシマとナガサキでは、爆心地から1.6キロ圏内の被爆者は、数時間以内、または数日以内に死にいたるガンマ放射線量を浴びた。1.6キロ圏外の被爆者もまた致死性になりかねないレベルの放射能を浴びたが、死にいたるのは、数週間後、または数か月後だった。
10 Ibid.
11 Holly M. Barker, Bravo for the Marshallese: Regaining Control in a Post-Nuclear, Post-Colonial World (Belmont, CA: Wadsworth, 2004): 17-20.
12 Rose Gottemoeller, “Remarksat the Republic of Marshall Islands Nuclear Remembrance Day” [ローズ・ゴッテモラー「マーシャル諸島共和国追悼記念日談話」](2014年3月1日)。 3月1日のブラヴォー実験記念日は、核犠牲者および被爆者追憶記念日として知られるマーシャル諸島共和国の公休日である。
13 Barton C. Hacker, Elements of Controversy: The Atomic Energy Commission and Radiation Safety in Nuclear Weapons Testing, 1947-1974 (Berkeley: University of California Press, 1994): 180-184.
14 Malgosia Fitzmaurice, Contemporary Issues in International Environmental Law(Northampton, MA: Edward Elgar Publishing, 2009): 154.
15 核分裂兵器は、原子の分裂と原子核のエネルギー放出の原理にもとづいている。核融合兵器は、恒星が核燃料を燃やし、2個の原子を融合する物理現象を真似ている。多くの場合、核分裂兵器は原爆と呼ばれ、核融合兵器は水爆または熱核兵器と呼ばれる。熱核兵器は核分裂兵器の数千倍の威力がある。
16 Atoms for Peace and War, 1953-196, 182.
17 Richard J. Hewlett and Jack M. Holl, Atoms for Peace and War, 1953-1961: Eisenhower and the Atomic Energy Commission (Berkeley: University of California Press, 1989): 181.f an article first published in the of an article first published in targets before an attack)ng Ground, however this 14% accou
18 Mark Schreiber, “Lucky Dragon’s Lethal Catch,” The Japan Times (March 18, 2012) (accessed July 16, 2015): Samuel Glasstone, ed., The Effects of Nuclear Weapons (Washington DC: US Government Printing Office, 1962): 460-64; "'Missing' Documents Reveal 1954 U.S. H-bomb TestAffected 556 More Ships," Mainichi Shimbun (September 20, 2014) (accessed 28 October 2014).
19 Ralph Lapp, The Voyage of the Lucky Dragon (New York: Harper and Brothers, 1957).
20 Lapp, The Voyage of the Lucky Dragon; Oishi Matashichi, The Day the Sun Rose in the West: Bikini, The Lucky Dragon, and I (Honolulu: University of Hawaii Press, 2011).
21 Robert Jacobs, The Dragon’s Tail: Americans Face the Atomic Age (Amherst, MA: University of Massachusetts Press, 2010): 30.
22 See for example, “Warship Showers Off ‘Fallout,’” Popular Science (January 1957): 151.
23 Jacob Hamblin, “‘A Dispassionate and Objective Effort:’ Negotiating the First Study on the Biological Effects of Atomic Radiation,” Journal of the History of Biology 40 (2007): 147-177.
24 A. Constandina Titus, Bombs in the Backyard: Atomic Testing and American Politics (Reno: University of Nevada Press, 1986): 17-18.
25 Bravo for the Marshallese, 17-19.
26 Jonathan M. Weisgall, Operation Crossroads: The Atomic Tests at Bikini Atoll(Annapolis: Naval Institute Press, 1994).
27 David Bradley, No Place to Hide (Boston: Little, Brown and Company, 1948).
28 “The Evaluation of the Atomic Bomb as a Military Weapon,” June 30, 1947. JCS 1691/3, 57-89.
29 Jacobs, The Dragons Tail, 84-98.
30 Gregg Herken, Counsels of War (New York: Alfred A. Knopf, 1984): 103.
31 Robert Jacobs, “Military Nationalism and Nuclear Internationalism in Asia,” in Jeff Kingston, ed., Asian Nationalisms (New York: Routledge Press, 2015) forthcoming.
32 David Holloway, Stalin and the Bomb: The Soviet Union and Atomic Energy, 1939-1956 (New Haven: Yale University Press, 1994): 213-223.
33 Department of State, FRUS, 1949 Vol. I, National Security Affairs, Foreign Economic Policy (Washington, D.C.: U.S. Government Printing Office, 1976): 481-482.
34 Michele Stenehjem Gerber, On the Home Front: The Cold War Legacy of the Hanford Nuclear Site (Lincoln, NE: University of Nebraska Press, 1992), pp. 31-53.
35 David Rosenberg, "The Origins of Overkill: Nuclear Weapons and American Strategy, 1945-1960,” International Security 7:4 (Spring 1983): 16-17.
36 Lynn Eden, Whole World on Fire: Organizations, Knowledge, and Nuclear Weapons Devastation (New Delhi: Manas Publications, 2004)において、リン・エデンは、核爆発で生じる火災に関する評価の放置と戦争計画について、辛辣極まりない批判をものにしている。
37 Herken, Counsels of War, 62.
38 Quoted in David Rosenberg, "A Smoking, Radiating Ruin at the End of Two Hours: Documents on American War Plans for Nuclear War with the Soviet Union, 1954-55,”International Security 6:3 (Winter 1981/82): 25.
39 Rosenberg, "The Origins of Overkill,” 19.
40 Ibid., 7.
41 Ibid., 51.
42 Ibid., 51.
43 Eric Schlosser, Command and Control: Nuclear Weapons, the Damascus Accident and the Illusion of Safety (New York: Penguin Press, 2013): 245-7.
44 Peter Pringle and William Arkin, SIOP: The Secret U.S. Plan for Nuclear War (New York: W.W. Norton, 1983); Lawrence Freedman, The Evolution of Nuclear Strategy(New York: St. Martin’s Press, 1981): 245.
45 Counsels of War, p. 138. See also, Fred Kaplan, The Wizards of Armageddon(Stanford: Stanford University Press, 1983): 270-2.
46 Atoms for Peace and War, 345.
47 Morrison, Philip and Paul Walker. “A Primer of Nuclear Warfare.” In, Jack Dennis, ed. The Nuclear Almanac: Confronting the Atom in War and Peace. Reading, MA: Addison-Wesley Publishing Company, 1983): 153.
48 Herbert York, Race to Oblivion: A Participant’s View of the Arms Race (New York: Simon and Schuster, 1970): 75-105, 173-187.
49 Jacobs, The Dragon’s Tail, pp. 1-11; Robert Jacobs, "Whole Earth or No Earth: The Origins of the WholeEarth Icon in the Ashes of Hiroshima and Nagasaki,” The Asia-Pacific Journal Volume 9, Issue 13, Number 5 (28 March 2011)
50 William Souder, On a Farther Shore: The Life and Legacy of Rachel Carson, Author of Silent Spring (New York: Crown, 2012), pp. 233-34; “Radioactive Fish May Move Over Wide Area of Pacific,” Sydney Morning Herald (25 November 1954): 2; Spencer R. Weart, The Rise of Nuclear Fear (Cambridge: Harvard University Press, 2012): 98-9.
51 Sevitt, S. "The Bombs," The Lancet 269 (July 23, 1955): 199-201. Map drawn by Y. Nishiwaki.
52 このできごとは1953年に起こったが、1954年まで公に報道されなかった。See, Herbert Clark, "The Occurrence of Unusually High-Level Radioactive Rainout in the Area of Troy, N.Y.,” Science (May 7, 1954): 619-22.
53 Richard L. Miller, Under the Cloud: The Decades of Nuclear Testing (The Woodlands, TX: Two-Sixty Press, 1991), p. 197; see also, Harvey Wasserman and Norman Solomon, Killing Our Own: The Disaster of America’s Experience with Atomic Radiation (New York: Dell, 1982): 92-3.
54 “United States Nuclear Tests, July 1945 through September1992,” Federation of American Scientists (accessed 28 October 2014).
55 Available online at, Project Sunshine: Worldwide Effects of Atomic Testing (Santa Monica: RAND, 1956) (accessed 28 October 2014).
56 Sue Rabbitt Roff, “Project Sunshine and the Slippery Slope: The Ethics of Tissue Sampling for Strontium-90,” Medicine, Conflict and Survival 18:3 (2001): 299-310.
57 See, “Australian Strontium-90 Testing Program 1957-1978,” Australian Radiation Protection and Nuclear Safety Report: Reprinted here (accessed 28 October 2014)
58 1962年には、米国が計92発の核兵器を試験し、またこれとは別に米英両国共同で2発の試験を実施しており、これが核実験の最盛期になった。See, “United States Nuclear Tests, July 1945 through September 1992,”Federation of American Scientists.
59 Paul Boyer, Fallout: A Historian Reflects on America’s Half-Century Encounter with Nuclear Weapons (Columbus: Ohio State University Press, 1998), pp. 82-4; Lawrence S. Wittner, Rebels Against War: The American Peace Movement 1941-1960 (New York: Columbia University Press, 1969): 241-56.
60 Benjamin Spock, Dr. Spock’s Common Sense Book on Baby and Child Care (New York: Duell, Sloan and Pearce, 1946).[訳者による補注:レベッカ・ソルニット『暗闇のなかの希望~非暴力からはじまる新しい時代』第1章「暗闇を覗きこむ」からの抜粋――いつも家に帰るのが早すぎる。いつも成果を計算するのが早すぎる。「女性のためのストライキ運動(WSP=the Women's Strike for Peace)」は、アメリカ初の大規模な反核兵器運動であり、母乳や乳歯から検出される放射性降下物の放出源となる地上核実験の終結を実現した1963年の大勝利に寄与している。ひとりのWSPの女性は、ある朝、ケネディ大統領が執務するホワイトハウスの前で行われた抗議行動に加わり、雨のなかに立っていて、ばかばかしくなり、なんというくだらないことをやってるんだろう、と思ったという。ところが何年もたってから、核兵器問題の活動家たちのなかでもっとも著名で重要な存在だったベンジャミン・スポック博士が、「わたしにとっての転機は、女性たちの小さなグループが、ホワイトハウスの前で雨に打たれながら、抗議しているのを見かけた時であり、あの人たちがあんなに熱心にやっているのなら、わたしも問題をもっと真剣に考えなければならないと思ったのです」と語るのを、彼女は聞いたそうである]
61 Milton S. Katz, Ban the Bomb: A History of SANE, the Committee for a Sane Nuclear Policy (New York: Praeger, 1986): 65-83.
62 Ban the Bomb, 78.
63 Rachel Carson, Silent Spring (New York: Houghton Mifflin, 1962). See also, Eliza Griswold, “The Wild Life of Silent Spring,” New York Times (September 23, 2012): MM36.
64 James Lovelock, Gaia: A New Look at Life on Earth (Oxford: Oxford University Press, 1979. See also, Michael Ruse, The Gaia Hypothesis: Science on a Pagan Planet(Chicago: University of Chicago Press, 2013). レイチェル・カーソンの本は、ラヴロックの仕事の前触れとなった決定的なテキストであり、バックミンスター・フラーの「宇宙船地球号」概念とバリー・コモナーの「閉鎖系連環」概念もそうであった。See, Buckminster Fuller, Operating Manual for Spaceship Earth (Carbondale, IL: Southern Illinois University Press, 1968). Barry Commoner, The Closing Circle: Nature, Man & Technology (New York: Random House, 1971);
65 Jacobs, “Whole Earth or No Earth.” See also, Andrew G. Kirk, Counterculture Green: The Whole Earth Catalog and American Environmentalism (Lawrence, KS: University Press of Kansas, 2007).
66 Elizabeth M. DeLoughrey, “The Myth of Isolates: Ecosystem Ecologies in the Nuclear Pacific,” Cultural Geographies 20:2 (2007), pp. 167-184; Laura A. Bruno, “The Bequest of the Nuclear Battlefield: Science, Nature, and the Atom During the First Decade of the Cold War,” Historical Studies in the Physical and Biological Sciences 33:2 (2003): 237-259.
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