何で舛添が駄目で甘利が良いのか、さっぱりわからない。 舛添に対しては連日、どこの...
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2016年6月6日月曜日
1945年6月5日 アメリカ軍による神戸市街地攻撃命令 「作戦任務第188号」
◎ 作戦任務第188号 1,日付:1945年6月5日 3,目標:神戸市街地(90.25-11) 5,出撃爆撃機数:530機 6,第1目標爆撃機数の割合: 89.87%(第1目標473機) 7,第1目標上空時間: 6月5日7時22分~8時47分 8,攻撃高度:13,650~18,800フィート (約4160 ~5730m) 10 ,損失機数:11機 11 ,作戦任務の概要: 市の約3.8平方マイル(約9.8 km2)と神戸の東方0.5平方マイル(約1.3 km2)を破壊した。番号を付した工業目標9か所に損害を与えた。市の損害累計は8平方マイル(約20.7 km2)、市の建物部分の約51%。 ◎a.作戦開始日の選定 前回の神戸への焼夷弾攻撃(作戦任務第43号)は、重要な工業目標を含む神戸の一定区域に損害を与えることができなかった。他の都市地域への攻撃での経験から、もう一度焼夷弾攻撃を行えば、神戸を焼夷弾攻撃目標からはずせるであろうと考えられた。別の焼夷弾攻撃目標への攻撃計画が立案されていたが、神戸の天気予報が良好であったので、6月5日に集中的打撃を与えることが決定された。 ◎b.目標の重要性 神戸は、日本の最も重要な輸送中枢であり、重工業、造船業並びに船舶業者が多く存在している。この作戦任務に割り当てられた目標地域は、いくつかの大きな製鉄工場、ゴム工場、重要な鉄道駅、商業地区の一部と建築物密集地域を含んでいる。 ◎神戸に投下された爆弾 M47A2焼夷弾は、瞬発弾頭による起爆装置をセット。 T4E4破砕集束弾は、目標区域内にいる編隊の全機より下で作動するのを確保するために、機下3000フィート(約910m)で作動するように起爆装置をセット。 M69焼夷弾(E46集束焼夷弾)は最適な貫通力と弾着角度を確保するために、目標上空5000フィート(約1520m)で作動するように起爆装置をセット ◎この昼間の焼夷弾攻撃は、横浜への攻撃とほぼ同じように計画。主な違いは、爆撃高度が、横浜攻撃では18000フィート(約5490m)又はそれ以上、神戸では11000~15000フィート(約3350~4570m)の範囲であったこと。 全文はこちら 「神戸大空襲」から引用。 6月5日 東京や大阪を焼き尽くしたあのB29が、とうとう神戸にやってきたのです。 最初の神戸大空襲は3月17日でした。 約70機のB29が深夜の神戸を爆撃しました。 照明弾の明かりで、はるか上空に、銀色の不気味な機体が、いくつも、浮かび上がったのを覚えています。 このときの空襲では、私のすんでいる地域には、殆ど被害はありませんでした。しかし、神戸市の西部では多くの被害を出し、約2500人の死者を出しました。 この日以降、小学校の授業は中止され、田舎に縁故のある子供達は縁故疎開に、縁故のない子供達は集団疎開することになります。 私の場合は、その年の4月から、集団疎開で、岡山の田舎のお寺で疎開生活を送っていました。 そして、6月5日、前回をはるかに上回る、350機のB29の大編隊が神戸を襲いました。 2時間以上もの間、東京大空襲の約2倍の、3000トンもの焼夷弾を、この狭い町に、繰り返し、繰り返し、投下したそうです。 このときの空襲では約3000人の死者が出たそうです。 空襲がどんなに恐ろしいものかは経験した人でないとわからないでしょう。 実は、私も経験していません。 以下、父や、兄から聞かされた神戸大空襲の恐ろしく、悲しいお話です。 敵機来襲 警戒警報のサイレンが鳴り、ラジオからは敵機来襲の第一報が入ります。 B29の大編隊が和歌山県の潮岬上空を北上中。 神戸の人々は遂にやってきたかと覚悟を決めました。 日本中の多くの都市が空爆され、今この時期に潮岬上空にB29の大編隊が現れたとすれば次の目標は神戸以外に考えられなかったからです。 男達は戦闘帽に、戦闘服、ゲートルに地下足袋で身を固め、女達は防空頭巾をかぶりモンペをはいて消防団に参加して街角に待機します。 家の中の、あちこちには、水の入ったバケツが並べられ焼夷弾の投下に備えます。 当時、私の家には父母と長兄、次兄の4人が住んでいました。 私の母は病弱だったので、予め、近くの防空壕へ避難しました。 やがて、不気味な爆音とともにB29の大編隊が神戸上空に姿を見せました。 遥か高空でありながら、1機や2機ではありません、350機にも登る大編隊だったので、エンジン音が地上まで届くのです。 敵機来襲というのに日本の飛行機は全く飛んでいません。 戦争末期で飛べそうな飛行機は殆ど前線に集められており本土防衛にまわす余裕もなかったのです。 時々どこかで高射砲を打ち上げる音がしますが、敵機までは届きそうにありません。 全く、無防備の状態で神戸の町は焼き尽くされようとしています。 焼夷弾 神戸は海と山に囲まれた東西に細長い町です。 この町に正確に焼夷弾をばら撒くためでしょうか、まず1機がやや低空に下りてきて町の周辺部に焼夷弾を投下します。 燃え上がる焼夷弾や家屋の炎で、町の輪郭が浮かび上がります。 そして、本格的な爆撃、B29の大編隊は燃え上がった輪郭の内側へ絨毯爆撃をくりかえし、神戸の町を火の海にしたのです。 無数の焼夷弾が雨あられのように降り注がれてきます。、 数発の焼夷弾が我が家の屋根を貫くのを見た長兄は、頭から水をかぶるなり、二階へ飛んであがります。 用意していたバケツの水を火の玉にぶっ掛けますが全然消えません。 水をかけた程度では消えない特殊な油脂が、柱や壁にこびりつき火の手を強めていきます。 追い討ちをかけるように何発かの焼夷弾が我が家に突き刺さり、とても消火どころではありません。 どの家でも同じようなことになっていたのでしょう。 火の海の中で あちらでも、こちらでも火の手が上がり、焼け出された人々は、とりあえず、近くの電車道へ避難します。 普通の火事であれば少し広い場所へ出れば熱気や火炎から離れることができます。 空襲で町全体が火の海となってしまうと、30メートルや40メートルの道路では避難場所にはなりません。 人々は、道路の中央で立ち往生していた市電の陰で熱気を避けようとします。 しかし、火事場風が巻き起こり、その風向きが変わるたびに、熱気の弱いところへと悲鳴をあげて逃げ回ります。 このままでは焼き殺されてしまうと思った私の家族は、防空壕に避難している母を連れていっしょに逃げようとします。 猛烈な火勢で小さな防空壕が竈のようになってしまいそうだったからです。 しかし、母はその場を動こうとしなかったそうです。 猛烈な火勢を見て、自分の体力では、とても逃げ切れないと悟ったのでしょうか。 その場でどんなやり取りがあったかは聞いていません。 父と2人の兄は仕方なく防空壕を飛び出し、猛火の中をどこへとも知れず逃げ延びたようです。 互いの安全を確かめる余裕もないほどの、火の海の中を、散り散りばらばらになって。 火の手が静まった翌朝、父と長兄は、我が家の焼け跡に戻ってきました。 しかし、母と次兄は戻ってきません。 母は近くの防空壕の中で息絶えているのが見つかりました。 次兄はその時中学1年生でした。 入学祝に買ってもらった愛用の自転車に乗っていました。乗りなれた自転車で、いち早く逃げていくのを、父と長兄は、あの時、見送っていたのです。 必ず生きていると信じながら、父と長兄は次兄を探しつづけました。 |
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